実習はホンダダックスに乗って

学3から学4にかけて公衆衛生学の実習というポリクリとは趣を異にするが、なかなか難物の科目があった。公衆衛生学は大切な科目であるのだが、内容が地味な上に試験がないときているものだから講義の出席者は10人前後しかいない。試験がない代わり大掛かりな実習があって、これを落とせば卒業できない。大掛かりな実習というのは、もちろんテーマごとに違いはあるのだが大体大学から外に出て、現場で仕事をするフィールド･ワークが中心となる実習ということだ。

実習のテーマは40ばかりある、それぞれに2〜4人の学生が割り当てられる。誰がどのテーマを選ぶかは学生たちが自分の希望に基づいて決める。定員オーバーなら学生同士が調整する。私は｢都市における虚血性心疾患の実態調査｣というのを選んだ。

近年、死亡の3大原因は、癌、脳血管疾患、心疾患である。とりわけ心疾患は増加し欧米型に近づいたといわれる。死亡記事を見ても｢心不全で死亡｣とよく出ていた。しかしこの｢心不全｣が曲者である。死ぬときはみんな心臓が止まる。それで医者たちは厳密な死因の同定を避けて安易に｢心不全｣と死亡診断書を書くこともあったのだ。それが見かけ上の心疾患での死亡の増加を生んでいるのではないかという批判的精神に立って、｢心不全｣症例をすべてきちんとカルテに戻って死因の検討をしてみようというのが私の選んだ実習の目的だった。

いつものことなのだが、私とグループの学生･指導教官とはややこしい関係にあった。私とグループを組むのは男子学生I君と女子学生Mさんだった。I君は私の予備校での教え子だった。彼は予備校の時から真面目で礼儀正しい男で、医学部に来ても私を立ててくれるような人だった。Ｍさんはお嬢さん学校で知られるK女学院卒の才媛なのだが、私のような庶民から言わせるとちょっと世間離れした才媛なのである。指導教官のB先生は京大理学部の後輩で私より先に阪大に学士入学した人だ。京大時代面識はなかったがまあ私のほうが先輩風を吹かせられそうだった。しかし一番問題だったのはI君とMさんが恋人同士であるということだった。仲良く二人で実習をしようと思っていたところに頓馬な私が割り込んでしまったという図式だったのである。

｢実態調査｣というのを私は甘く見すぎていた。大阪近郊のS市における昭和59年1年間の心疾患死亡者であると厚生省の統計でみなされたものを、S市保健所に保管された死亡票から抽出する。実際やってみると110例あった。各症例について死亡診断医療機関を直接訪問してカルテと心電図を閲覧して調査票に記入して持ち帰る。持ち帰った資料を診断基準に基づき検討し虚血性心疾患かどうか診断する。以上が実態調査の中身である。110症例の内には死体検案書しかなくてカルテなど残っていない症例もあるから、訪問しなければならぬ医療機関数は約70。3人で分担するので一人あたり約20医療機関を直接訪問してカルテと心電図を閲覧する計算になる。

Ｓ市の住民でもかかっている病院はS市内にあるとは限らない。私が分担した医療機関は、Ｓ市のみならず隣接するI市、及び大阪市に点在していた。水曜日の午後に何週もかけてこれらの病院を回るのだ。車でいくのもいいが小回りのきくバイクで回ることにした。早速中古のバイクのホンダダックスを購入した。

原付は結婚した頃女房の足にとソフィア･ローレンのコマーシャルで有名なラッタッタを買って、私も乗っていた。しかし変速ギアがないのは物足りなかった。今回はレベルアップを図ってダックスにしたのだ。ダックスはそれなりにマニアックで、乗る人が乗れば格好よかったのだろうが、私はといえばギアチェンジとかに手間取ったりしてとろとろと走ることが多かった。それにヘルメットだ。当時はフルフェイスが大流行だったが、私は帽子型だった。こういうヘルメットはおばちゃんか銀行員専用だった。

私は銀行員よろしくダックスをとろとろ走らせながらあっちの病院こっちの診療所とカルテと心電図を求めて走り回った。銀行員よろしくと書いたが、今思えばこの頃のバブルに突入しようという時で銀行員は大金を右から左へと動かし羽振りのいい人たちだったのだ。それに引換え私の病院訪問は死因の再調査という病院にとってはちょっと胡散臭くまたちょっと丁重に扱わねばならない代物だった。

診療所によっては院長のみならず院長夫人まで出てきて喉がつまりそうな馬鹿でかいシュークリームを出してくれるところまであった。別の病院では老医師が出てきて大学の昔話に付き合わされることもあった。若い学生なら要件だけ済ませてそそくさと帰ればいいのだが、妙に年をとった学生なものだからついつい世間話に一応付き合ってしまう。次を急ぎますからなどといってほうほうの体でやっと逃げ出したものだ。

カルテにはドイツ語や略語やすさまじい悪筆やらおよそ学生には判読できないものも多かった。心電図をきちんと読むのも学生にはきつい仕事だった。ホンダダックスを乗り回しての資料集めが終わっても、その分析にはまた大変な労力が強いられた。恋人同士に余分に加わる無粋な男の苦労も加わって。

苦労のかいあってか公衆衛生学の評価はよかったようである。指導教官が京大の後輩と言う事もきいたかもしれないが。