美人の足に蛆が這う

学4ではマイナーと学生たちが呼ぶ講座のポリクリが行われる。皮膚科、眼科、耳鼻科、法医学、脳外科、特殊救急部、整形外科、泌尿器科、放射線科、麻酔科、小児外科である。産直ポリクリといってお産に立ち会うポリクリもある。このときも代表がポケベルを持たされ、ベルが鳴るとみんなしてそれっとばかり分娩室に駆けつけるのだ。

法医学のポリクリ、これは私が期待していたものだ。私は中学生の頃から法医学には興味を持っていた。八海事件、下山事件などの本は好きだったし、法医学というのは推理小説のエッセンスみたいものだと思っていたからこのポリクリを楽しみにしていた。不謹慎ながら怖いもの見たさで現場での法医学のポリクリである検死の随行にも期待したのだ。

初日のポリクリで検死に随行することになった。大阪市の監察医室が、法医学教室に併置されていたので、大阪市の異状死体の検死を担当するのだ。黒塗りの公用車(運転手つき!)の助手席に監察医が乗り、学生3人が後部座席に乗る。ドキドキしながら異状死体のある現場に向かうのである。その日検死された異状死体は巨大なごみの塊が落ちてきて圧死した男性と都市ガスで自殺をした女性であった。二人とも外見には大きな変化はなく、淡々と検死は終わった。

ポリクリ最終日、検死にもう一度随行できた。今度の監察医は30台半ばすなわち私より少し若い美人の女医さんだった。白いスラックスに白いサンダル、白衣をはおり｢さあ、行きましょう。｣と颯爽と黒塗りの公用車の助手席に乗り込んだ。私たちも慌てて後部座席に乗り込み、車は西に向かって進みだした。第1の目的地は大阪市Ｍ区にあるアパート夕凪荘だ。アパートの住人が自室で死んでいるのを発見した大家さんが届け出たのだという。一人暮らしの老人で死後何日かたっているらしい。

もう少し行けば海が見えるあたりで国道から離れ、2筋入ったところに夕凪荘はあった。このあたりは小さな民家が軒を連ねて並んでいる。所々にアパートがある。他の民家を圧するようなマンションはない。夕凪荘も民家の並びに溶け込むような2階建てのアパートであった。警察官が2人われわれを迎えてくれる。

公用車から降りると、玄関はあいていてまっすぐ2階に通じる階段が見えた。現場は2階にあるという。美人先生は白衣のすそを翻しながら階段を上がっていった。私たち学生3人もおくれじと後ろをついていく。階段を見上げると、踊場にはもう1人警官が立ち番をしており、われわれ一行を見るとはっと敬礼をする。階段を真中あたりまで上るとなにか異臭が漂ってきた。｢ん、今回の検死はただ事ではないぞ。｣と頭の中に警戒信号が鳴り出す。

踊場に近づくほどに異臭は強くなり、踊場の床をなにやら動くものが目に入った。目を凝らすとなんと蛆虫ではないか。いたぞ！心を引き締めながら数えてみると、1,2,3匹・・・いるではないか。踊場のところでわれわれもビニール手袋をもらう。踊場から直角に廊下が続く。現場は最初の部屋だった。廊下から部屋をのぞくと、廊下側を頭にしてうつ伏せで毛布をかぶった姿勢で胡麻塩頭の後頭部が見えていた。

美人先生はずんずんずんと進んで死体の足元に位置した。私たち学生はＳ君、私、J君の順に並んだ。うす茶色い枕を見ると、頭が乗っている部分の周りはもっと濃い褐色になっていて浸出液が頭部から大分出てきている様子だ。

｢毛布を取ってください。｣美人先生の指示で二人の警察官がそれぞれ毛布の頭側と足側の端を持ってさっと取り除いた。新たな強烈な異臭がわれわれの鼻を襲うとともに、死体の背中から臀部太ももにかけて1万匹はいようかという蛆虫がびっしり覆い、突然の光を浴びせられてもぞもぞもぞと四方八方に動き出した。蛆虫は何重にも折り重なっているらしくどんどん四方に動いて行くが､下から下から蛆虫が湧いてくるようで死体の皮膚は現れてこない。

多分われわれ学生はあっとか叫んでいただろう。そしてちょっと後ずさりしたに違いない。しかし美人先生は毅然として立っていた。あろうことか死体に一歩近づいてわれわれに講義を始めた。「死後何日かを判定するのに蛆を使えばよいといわれます。すなわち蛆の大きさからハエが卵を産みつけてから何日経過したかを予測できるからというのです。残念ながらそうはうまくいきません。ハエの種類により蛆の大きさはさまざまだからです。」

われわれに教えを垂れる美人先生の白いサンダルから出た足の指や甲を蛆虫が2匹3匹と這っているのである。私はあっけにとられ先生の学問的厳しさに感動してしまった。うつ伏せの死体の観察が一通り終わり、先生の指示で死体は仰向けにされることになった。

また2人の警察官が肩と足を持って死体を半回転させる。一方の肩が上がると同時に頭も上がる。それにつれて周りの組織が腐敗しているものだから眼球がドローと垂れ下がる。枕は浸出液でどろどろだし、仰向けになった顔面は形をなしていない。腹部はパンパンに腫れ上がっている。先生はさらにぐいと近づき手袋をはめた手で腹部を触診する。「体内で腐敗が進みガスが発生してこんなに腹部は膨隆するのです。さらに腐敗熱でこんなに暖かいのです。さあ、触ってごらんなさい。」確かにおじいさんのおなかはまるで生きているみたいに、いや生きている時以上に暖かかった。

その頃安住の棲家を追われた蛆虫たちは狭い部屋中から廊下、踊場へと走り回っていた。われわれはその蛆虫を踏みつけないように注意しながらその現場を離れ、黒塗りの公用車に乗り込み、次の現場釜ケ崎の簡易旅館に向かうのだった。