京の噂は30年、大阪の噂はただ1日

学1の15科目の試験も無事何とか通過して、学2を迎えることになった。3月に、京都の向日市から豊中市に引っ越した。1年間向日市から大阪の中之島まで通ってみて、ちょっときつかった。息子がちょうど小学校に上がる年にもあたっていて、引っ越すのにはちょうどよかった。

私の生まれは鳥取である。5歳だった昭和27年5月に京都の向日町に引っ越してきた。私たちが引っ越す直前に鳥取大火があり、5228戸が焼失し、鳥取市中心街はほぼ全滅状態になっている。私の住んでいたのは同じ鳥取市でも賀露といって中心街からは千代川の川向こうという位置関係にあるため延焼は免れた。午後3時に出火して鎮火するのが翌日の午前3時であったから、夜になっても人の動きがあわただしく、家の窓ガラスが真っ赤に染まっていた光景は今でもはっきり思い出される。

昭和27年から昭和59年までずっと向日市に住んでいた。結婚したりして近距離のところで何回か引越しをしたけれど、32年間京都に住んでいたことには変わりない。小中高と地元の学校に通い、大学も京大だったから名実ともに京都の人間である。しかし生粋の京都の人間かというとそうではなくて、向日市という郡部に住んでいたし、父は但馬の出身で母は摂津の出身である。父と母が知り合ったのが北摂の池田市にある渋谷高校の前身の学校であった。昭和10年ごろの話である。今私のクリニックから渋谷高校までは車でほんの5分ほどの距離である。偶然というか妙な縁だ。

昭和59年3月、豊中市役所に転入届を出し大阪の人間になった。手続きを待つ間テレビを見ていると｢誘拐されていた江崎グリコ社長が無事保護された。｣というテロップが流された。一件落着したように見えたこのニュースがあのグリコ・森永事件の始まりを告げていたとは知る由もなかった。

大阪の住み心地はよかった。住んだところが服部緑地の近くのマンション群からなる新しい町だった。息子のクラス名簿を見ると40人の生徒も先生もみんなマンション住まいである。自分のところが害を受けなければ隣が何をしようが関係ないし、何をする人かなんて興味がないというマンション族の態度は新鮮で心地よかった。37歳になって何で学生なのだなどと詮索されなくて済むからである。

京都に32年間住んでいたが、近所の人の移り変わりはあまりなくて、みんな互いによく知っているものだから、たまに誰かに何か変化があると格好の噂話になったように記憶している。私がちょっと生意気なことを言うと、｢あんたはついこないだまでパンツ1枚で走り回っていたと思ったら、偉そうなことが言えるようになりましたなぁ｣などと揶揄される。確かに私はパンツ1枚で走り回っていたけれど、それは30年前のことなのだ。私と妻とは結婚前直線距離で150m程しか離れていないところに住んでいたのも、格好の噂話のネタになりそうだった。その男が無職でぶらぶらしているのではないかと思ったらまた医学部に入り直したらしいというのは、聞き捨てならぬ話であったろう。

大阪ではそのての話を聞くことはなかった。それでも1度、近所の人のことでちょっとした噂になることがあった。マンションに配達にくる酒屋の奥さんがある宗教の教団に子供を連れて入信した。その実直そうな酒屋の自宅に早速新しい女性が入っているというのである。それを聞いた私は、やっぱり大阪でも色恋沙汰は噂になるもんだと思った。ところがその噂はわずか1日限りで、翌日からもうだれも酒屋の主人についてどうのこうの言わなかった。

大阪に来て気に入った食べ物に、そば定食・うどん定食がある。そばまたはうどんに加薬ご飯かおにぎりがセットになっているのである。京都ではそばならそば、うどんならうどんを食べると相場が決まっていたように思う。格式伝統を重んじると、噂話が好きになり、うどんと加薬ご飯を一緒に食べるなどというのは邪道になるのだろう。

引っ越したことで大学に通うのはぐっと楽になり、マンションの住み心地もいいし、同じ関西とはいえちょっと違う新しい文化に触れることにもなった。少し気楽な学2を過ごせる予感がしたのである。