ナルキッソスの末裔たち　１

ナルキッソスはギリシャ神話に出てくる美しい若者である。その美貌から娘たちな憧れの的になり、幾多の娘が追いかけ回したが誰にも興味をしめさなかったという。そんな彼が山の中で妖精のエコーに出会い、思うにエコーに一目惚れしたのだが、エコーがおうむ返しにしか話さないことでエコーに馬鹿にされたと思い、エコーを追い払ってしまう。エコーの方はこれに傷つき、洞窟に閉じこもり声だけの存在になってしまった。

このことは復讐の女神ネメシスの逆鱗に触れ、「他人を愛せないものは自分だけを愛せ」と呪いがかけられた。水を飲もうとかがんだナルキッソスは水面に映る自分の姿に恋焦がれてしまい、その場から離れることが出来ず結局そこで死んでしまったという。そしてそのそばから水仙が生え出でて花を咲かせたという。その故事にちなみ水仙の花言葉は自惚れである。

このギリシャ神話を素直に読むと、果たしてナルキッソスは自惚れ者だったのだろうかという疑問は湧く。なるほどナルキッソスはエコーに対してはかわいそうな仕打ちをしてしまったが、人間に（ギリシャの神にも？）過ちはあるもの。しゃしゃり出てきた復讐の女神こそ余計なお節介をするよと思いたくなるのだが、後世の人間はナルキッソス＝自惚れ者（ナルシスト）=自己愛型人格障害者と決めてしまったのである。

われわれは自分がどういう存在であるかという自己像を、姿かたちなら鏡や写真に映して知り、こころや内的活動は対人関係や社会的評価という鏡に映して知ることになる。多かれ少なかれ、満足できる自己像にはうっとりし、嫌な自己像は切り捨ててしまいたいと思うものである。しかし完璧な人間などいる訳がないからまあこんな自分でも仕方ないやと安心しておれるのだ。

満足できる自己像をどんどん肥大化させ、いつもそれを追い求めつづけると自己愛型人格障害と呼ばれてしまう。彼はいつも自分をエリート・選ばれし者と思い、万能者のように思い誇大的になる。限りない成功や理想の恋愛をいつも夢見ている。うまく事が運んでいる時はいいが、思い通りにいかなくなった時抑うつ的になりやすい。自分のせいでうまくいかないと思うことは自己愛を痛く傷つけてしまうから他人のせいに転嫁することで自己愛の傷つくのを防衛する。場合によってはうまくいかないのはだれそれのせいだと被害妄想まで持ってしまう。他者から批判されることを避け、いつも賞賛されることを求め、賞賛されることを当たり前と考える。批判されると凄く傷つきやすい、それでいて他者に対しては批判的でしかも冷淡である。

私の係わっていた予備校では各クラスに担任がいる。担任は教科を教えることはしない。教えるものは講師と呼ばれる。かくいう私もかつてはこの予備校で数学と物理の講師をしていたのだ。講師は教えることだけに専念する。さて担任はホームルームで教務連絡をし、進学相談や生活相談にのるのである。大学を出て数年という20歳台の若い人たちで、受験生にとってしっかり者の兄さん姉さんという存在だった。

国立理系で一番成績のいいクラス（予備校はすべて成績順にクラス編成される！）の担任の川島さんがカウンセリング室にやってきた。川島さんはきりっとした顔をした女性で性格もきりっとしている人だ。

その1,2年前、私が講師であった頃の夏期講習のある日、私はいつものように予備校の玄関をくぐろうとした。何人かの職員が立っていて、やってくる学生たちの学生証のチェックをしていた。その頃、もぐりで受講する学生も多かったためだ。講師である私は軽く会釈して通り過ぎようとした。一人の女子職員から呼び止められた。「学生証を見せて下さい。」

ベテラン講師で職員が知らぬわけがないと自認いる私はどぎまぎしながらもにっこり笑って、「講師です。」と答えた積りだった。私の声がちょっと早口でくぐもっていたのかもしれない。彼女は足を踏ん張りやや大柄な体をそらし気味に、「講習でも学生証は見せなさい。」と言った。その目は私を睨んでいた。

4０に近い男を学生に間違えてくれてうれしく思う気持ちが余裕となって私はもう一度にっこり笑って、ゆっくりと「講師ですが･･･」と応じた。彼女ははっと自分の誤りに気づいて、すいませんすいませんと連発した。それが川島さんだった。これくらい性格がきりっとした人なのだ。

その彼女がクラスの男子学生陽平のことで困っていると言う。陽平は有名進学校の出身で学業成績はいい。それに関しては問題はない。このままの調子なら最難関の国立大学に合格できるだろう。陽平には付き合っている晴美という同級生がいる。いや厳密にはいたと言うべきだろう。11月も過ぎ、受験生にとって入試本番が身近に差し迫ったものと感じられる頃、晴美が陽平を避けるようになったらしい。

晴美はただ受験勉強により集中したかっただけだろう。一方、陽平は楽しく晴美と過ごしたほうがより勉強は進むと考えていたのだろう。朝も晴美が予備校にやってくるのを出迎えて一緒にいようとした。休み時間も一緒にいようとした。はじめはやんわりと断っていた晴美もそのうち断固として拒否するようになった。陽平の晴美への思いは怒りに変わっていったようだ。陽平は怒りを行動で表した。晴美に対して復讐してやるぞと言うような手紙を書いた。晴美にナイフをちらつかせるようなことをした。

事態がここまで進展し、晴美の相談を受け、陽平と何度も話し合いを持ってきた川島さんだったが、もう私の手には負いかねるとカウンセリング室の私のところにやってきたのだ。彼女の話を聞いて早速に危機介入しないといけないぞと思った。思ったはいいがさてどうする？陽平は私のところへ来るだろうか？説得したら先生のカウンセリングを受けに来ると思いますと川島さんは断言する。というわけで、1週間後私は陽平をカウンセリング室で待ち受けることになったのである。