性欲に悩む男

予備校生は禁欲を強いられるのが常である｡古く、高石友也の「受験生ブルース」に歌われるには、「昼は悲しや公園へ　行けばアベックばっかりで　恋しちゃならない受験生　ヤケのヤンパチ石投げた　　夜はかなしや受験生　テレビもたまには見たいもの　深夜映画もがまんして　ラジオ講座を聞いてるよ」とある。

アベック、深夜映画、ラジオ講座これらはみんな40年前の私たちの受験生の頃のアイテムで、10年前の予備校生には死語でしかなかった。しかし、禁欲的でならないのは変わりなかった。

禁欲は理性のなせる技である。しかし欲望はやすやすと理性に従うほど従順な存在ではない。まして18,9歳の若者にとって性欲は理性ではとんと御しがたい暴れ馬である。この暴れ馬をどう処置すればいいでしょうとカウンセラーの私に尋ねに来るものはいなかった。それは賢明なことだった。白状すれば私もその道には暗いほうだから。

しかしながら自分が異常性欲者ではないかと悩んで相談してくる学生は決して少なくなかった。彼らはみんなはじめからその悩みを主訴として相談に来るわけではない。勉強がはかどらない、集中力がない、イライラすることが多いなどということからカウンセリング室のドアを叩くのだ。話を進めていく中で、彼らにとって胸の奥底でいつも自分を脅かしていた恐ろしい想念「自分は異常性欲者ではないか」が浮かび上がり、意を決してカウンセラーの私に聞くのだ。

言いにくいことを思い切って言い出す時の常のように、彼らが話し出す前には重苦しい沈黙がしばらく続く。その重苦しい沈黙のせいでこちらのほうまで胸苦しくなるような時が流れることもある。しかし彼らの口をついて出る悩みは彼らの思いと裏腹にあっけないほどかわいい悩みなのだ。「僕はマスタベーションをしすぎているのではないか。」「こんなにオナニー好きなのはおかしいのではないか。」

これを聞いてくる学生はみんな男子学生であったが、こんな時私は明るく答えることにしていた。それも関西弁で。「心配ない、心配ない。何ぼでもしたらええねん。そんなんくよくよせんでもええ。それで調子ようやれるんやったら元気の素やと思ったらええね。」

まあこれであれほど深刻な顔をしていた学生はほっとしたような顔になる。マスターベーションの回数ぐらいで異常性欲者じゃないかと悩むのはかわいいといえばかわいいが、その悩みより友人関係の希薄さのほうが心配だ。こういう個人的秘密に属することは通常、友人関係の中でこっそりと語られて解決することが多いからである。

幹雄の訴えもやる気がしない、憂うつである、不安でイライラするという、カウンセリング室ではごくごくありふれたもので始まった。しかし、初回のカウンセリングの最後のほうで自分の性欲が異常なのではないかと悩んでいるということが語られた。他の学生の時と同じように、私はゆったりとした調子で、マスターベーションの回数が多いぐらいで異常という事はないよと応じた。他の学生と同じように彼もきっとそれで安心しただろうと思っていた。

幹雄は毎週のようにやってきた。そして性的悩みをいつも訴えた。「僕は先生が思っているよりもっと変なことをしているんです。やっぱり異常なのではないんですか。」といって、こんなマスターベーションをするのですと苦しそうに語りだすのだ。その詳しい内容はどういうわけか今私には思い出せないが、毎回毎回微に入り細に入りという感じで説明したのだ。彼は量の問題ではなく質の問題で自分の異常性を心配しているのだ。

幹雄の舌鋒は鋭かった。私の記録用紙を私から借り受けるとその裏にシャープペンシルの芯をつきたてんばかりに図を書いて自分の気持ちを説明しようとするのだ。私は正直言って彼の勢いにたじろぎながら、以前このシリーズで登場していただいた阪大の辻先生の口調を真似て叫ぶことにしていた。

幹雄は毎週のように来ては「僕はこの間こんな変なマスタベーションをしました。異常じゃないでしょうか？」と言う。私は辻先生になりきって言うのだ。「人間のすることに異常なんてありえない。異常が出来ればたいしたものだ。こんなのは俺しかやっていないと思っても、残念ながら実は誰かがやっているのだ。心配するな。君のしていることは異常じゃないんだ。」

幹雄の悩みは何も性的な事に限られていたわけでない。いろいろなイライラや、強迫的な事、自分が感じてしまう非道徳的な情念が次から次へと語られた。カウンセリングを続けるほどに彼の罪はとどまるところも知らず彼の内の闇から湧いて出てくるようだった。

6,7回連続してやってきた彼に、薬物療法も必要だと考えた私は、阪大病院の先輩医師で思春期の人の性的悩みにめっぽう強いＹ医師に紹介することにした。幹雄はY医師にも自分の性的異常性を克明に訴えたようである。幸い薬物療法も奏効して、あるいはY医師のほうが幹雄をを安心させるのが私より数段うまかったのか、カウンセリングに来ることもなく予備校生活を送ることが出来た。そして無事大学にも合格した。

今、クリニックをしていて中学生や高校生をはじめ若い人たちがセックスをまるでちょっとした挨拶程度にしか感じていないことにいつも驚き、これでいいのかと愁いている。しかし、やはり性的に異常なほど潔癖な若者もやって来る。性、それは人間にとって永遠のテーマである、・・・きっとそうなのだろう。